(プロローグ)


(仮説)大昔いわゆる原始の時代、人々は自給自足の生活(経済活動)を行っていた。生活に必要な物を、全て自分で賄うのである。現代社会と比較して決して文化的ではないが、現代人と比べて勝っていた事がある。それは全員が一日24時間を全て自分の為に使う事が出来た事である。よって、一日が24時間でリセットされて、また次の日が来る事がとても新鮮であっただろうと思われる。
 そんな原始の人達も、やがて時が流れ自活システムが出来上がると、毎日の生活の中で自分の得意とする作業と、不得意とする作業が、だんだんとはっきりとするようになる。そこで、それらを整理して、補い合える相手を見つけ、得手・不得手の作業を委託しあう様に成っていった。この事により、同じ物量・物質的な生活をキープしながら、互いに余暇(時間の余り)が、生まれることとなった。しかし、人々の中には、向上心の強い者と、そうでない者とがおり努力する者は、さらに得意とする技術を磨き、限りなく成長することとなる。しかしながら、どこまで成長しても、彼の生産量のうち交換できるのは、彼と作業を分担しているグループの消費の範囲であり、他のメンバーから見れば彼の能力は、過剰能力としか映らなかった。仮に、彼がこの余剰分をこのグループ以外の人と交換をしたとしても、次の限界は、交換して得たものを彼自身が消費できる範囲であった。
 このことから、原始の時代にあっては、人と人との補完関係は、消費という枠(フレーム)の中で、常にリセットされていたのである。
 結論として、原始の時代にあっては、人々に与えられた一日24時間は、個々の濃淡はあっても決して蓄積(ストック)される事はなく、必ず消費(フロー)されていたという事になる。


 さて、現代社会ではどうであろうか。貨幣が発行され信用取引が成熟し、また不動産が価値の対象となり取引され、(仮設)がすべて否定されている。つまり人々に日々与えられた24時間が、経済取引の中で全てが消費される訳ではなくなってしまったのである。(仮説)の中での人々の日々の生産能力の差(時間の使い残し)が、お金とか不動産の中に蓄積(ストック)され、その蓄積された価値(時間)が経済取引を通じて拡大し、個々人のストック(経済的な能力)の差が歴然としてしまった。そしてまた、そのストックを資産という名で評価するシステムが、出来あがってしまったのである。すべては一人一人から生まれた一日24時間に端を発した結果として考えると、誰に基準を求めても、他の人との間で人工的なタイムラグ(時間のズレ)が生じてしまったことになる。


 例えば、Aという人は、先祖の時間のストック(資産)を受け継ぎ、自らも日々時間をストックする能力がある。Bという人は稼ぐ能力(時間)と消費する能力(時間)が一致しておりストックは出来ない。また、Cという人は、自分の稼ぐ能力(時間)以上に人の能力を買う(消費する)為、負の時間(借金)のストックがあり、これからの未到来の時間も、人に支払う契約が出来あがっている。見た目にはそれぞれが同じ時間(リアルタイム)の中で暮らしているのに、経済的には過去と現在、そして未来の時間が複雑に絡みあっている。


 考えてみれば、私達の人生というのは、両親がタイムスイッチのボタンを押した事に起因している。有限の時間の中で生活する事を前提とし、生まれた日をMAXとして、全員が万障繰り合わせてピリオドへと向かうのである。であれば、タイムラグの生じない画一的な計画経済システムがベターであると、この提起を結ぼうというのではない。やはり市場経済システムがベターであると思っている。しかしながら、市場経済のシステムを十分に機能させ、万人にとって公平且つ公正にして謳歌するためには、生活(時間)のストック&フローのコントロールが如何に大事であるかという事を力説したいのである。




論文【金は、時なり】 1990年財津好夫著 より挿入





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